BORO 「不幸な出来事は幸せの入口」…生来病弱、闘病生活を経て到達した見地

 大ヒット曲「大阪で生まれた女」で知られるBORO(64)の活動はシンガーソングライターとしてだけではなく、難病研究を支援する「AYAKA基金」など多岐にわたる。生来病弱で、50歳を過ぎて10年間入退院を繰り返した。度重なる病を乗り越えて「生きる」と決意。「不幸な出来事は幸せの入口」と達観する。支えるのは何か。病から得たBOROのメッセージを届ける。

 -昔のことをすみません。16歳の頃、病気がひどくなり苦しくて死のうと兵庫県伊丹市の昆陽池(こやいけ)に入った。

 しんどくてしんどくて。ぜんそくの発作で。のたうち回ってたんです。ちょうど父親が長期の出張で家にいなくて私ひとりだったんです。姉は嫁いで山口県に行ってました。母はその年に亡くなった。しんどくてしんどくて。もう死んだ方が楽やと思ったんです。子供の頃は病弱だったけど、ずっとそうだったわけじゃない。元気になってたんですよ。それが母親が亡くなった年に再発したんです。病気がドンときました。死のうと思って16歳の11月に昆陽池に行ったんです。ところが池の真ん中まで行ったのに浅くて死ねなかった。その時に決意しました。「生きるぞ。生きて生きて生きまくるぞ」と。50代で硬膜下血腫で神戸の病院に入院した時もベッドの上で再び決意しました。「生きるぞ」と。2010年、58歳でした。

 -最近まで闘病。

 2006年から闘病生活に入りました。約10年間。死ぬか生きるかの入退院を繰り返しました。上あごの骨が溶けていく病気を患って人工の骨を足していきました。5年かけて継ぎ足して144針縫ったんです。それが終わった頃にシンバルが頭の右上に当たって硬膜下血腫になりました。それが終わったら今度はC型肝炎です。やっと経口薬ができて音楽活動を再開できるようになりました。

 -長かった。

 病気が完治したから2015年に「もう一回行くで」と。「大阪で生まれた歌」というCDを出しました。大阪の名曲をカバーしたトリビュートアルバムです。河島英五とか、桑名正博とか、たかじんさんの歌とかいっぱい入れてるんです。私が闘病生活している間に友達がみんな天国に行っちゃった。一番病弱だった私がみんなの歌を歌い継ぐという。不思議なもんです。河島は一番長生きすると思ってました。

 -子どもの頃から病と無縁でなかったことが人生に変化を。

 絵を描くこととか文章を書くこととか、曲を作ることとか。全部、病弱だったことが影響してます。だから最近、不幸な出来事というのは幸せの入り口やと思ってるんですよ。必ずしも不幸じゃない。

 -いい言葉です。

 体験の中からそう思うようになったんです。人を不幸にしようと思って発信してるんじゃなくて、みんなを幸せにしたいと思って発信していますから。だから不幸のまっただ中にいる人は、そのフレーズを聴いただけで救われることもある。いま不幸でも幸せの入り口や言うとんな、なるほどっていうような。そういうのが自分の使命なんです。だから歌を作ってると思うんです。人を助けるのが使命。歌で助けるのが使命。16歳の時の日記に「人の苦しみ悲しみの代弁者になる」。そう書いてるんです。民衆の苦しみ悲しみの代弁者になろうと。病弱というのがものすごい作用していると思います。

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