浜村淳 おニャン子クラブの思い出…しゃべくり稼業幕開けから現在まで(下)

 話術の達人こと、映画評論家でパーソナリティーの浜村淳氏(83)は同志社大学卒業後の1957年、東京でプロとして活動を開始し、60年を超えるしゃべくり稼業が幕を開けた。まだ東京では関西弁が広く受け入れられていなかった初期の苦労。関西に戻り吉本興業にスカウトされた際の、物議を醸しそうなギャラ事情。大阪と東京で生番組をハシゴし、おニャン子クラブと共演した時代まで、ノンストップで語りまくった。(上)(下)で。以下は(下)。

 -たまたまの出番のことを冷やかされたのでは。

 「実際そういうところもあったんですよ。自分はお笑いの世界では、やっていくのは向かないかなと考え、音楽専門の事務所に移ったんです。これもね、あの時、あのまんま吉本に残ってたら…と思うこともありますが、まあこれが私の2回目の失敗ですよ」

 -その後の浜村さんの活躍を考えれば、吉本興業も惜しいことを。

 「中邨さんは会長になられてからも、催しで一緒になると『また、うちに来んか』と言ってくださったんですよ」

 (74年にはMBSラジオ「ありがとう浜村淳です」が月-土曜でスタート。今年45年目に入る。毎朝ラジオ番組を続けながら、関西を中心に多数のテレビ番組に出演)

 -80年代には東京で、夕方にフジテレビ「夕やけニャンニャン」に火曜レギュラーで生出演。

 「行ってましたね。朝に大阪でラジオの放送終わってから飛行機で。NHKの『ゲーム ホントにホント?』というクイズ番組の時もそうでした。夜にまた帰ってくるんですが。『夕ニャン』はフジテレビが自社の制作能力を高めるために、若いディレクターたちにやらせた番組で、今も時々会いますが、みなベテランになってますよ」

 -おニャン子クラブの名物番組でした。

 「国生さゆりさんや工藤静香さんもおりましたですね。当時の中学生が毎日早く家に帰ろうとして、部活をする生徒が減ったという伝説もできました。なぜ私が呼ばれたのかは、いまだによう分かりませんが、若い娘さんたちと話が合わないのは、今も昔も一緒です(笑)」

 -今でも毎日、ラジオ出演後もお仕事ですか。

 「試写会に行ったり、映画は週に6本くらいは見ますかね。お仕事もさせていただき、ラジオの後、2つ3つ掛け持ちも。もう今は毎週東京は無理かなと思いますが、特番や歌謡ショーの司会とかで、けっこう行ったり来たり。しんどいこともありますが、そのぶん体には気をつけるようにしてます」

 -「ありがとう浜村淳です」は放送50年達成が期待されている。

 「おかげさまで、番組へのはがきも繁盛しております。なんかアメリカで90歳を超えてもラジオやってる人がいるんですってね。それを聞くと、やめられない(笑)」

 -ABCラジオで番組が42年目になる道上洋三さんが、浜村さんのことを「バケモノ」と言ってます。

 「よう、そんなこと言うなあ(笑)」(終わり)

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