浜村淳 京都で学生アルバイト司会から東京進出も壁に…しゃべくり稼業の原点(2完)

 話術の達人こと、映画評論家でパーソナリティーの浜村淳氏(83)は1955年、大学生時代に京都のジャズ喫茶で活動を開始した。思わぬ形で始まったジャズと映画の解説業がウケて、ラジオ局からも出演依頼が舞い込んだ。浜村節と称される神業的な話術は、一体、どこで学んだのか。映画との付き合いは幼少期にまでさかのぼる。60年を超えるしゃべくり稼業の原点を(1)(2)で届ける。以下は(2)。

 -京都のジャズ喫茶「ベラミ」から仕事が広がっていった。

 「そこから大阪や神戸の大きなジャズ喫茶にも出るようになり、ずいぶん仕事の範囲が広がったら、今度は放送局からラジオで映画とジャズの解説をしゃべってくれと依頼がきました。ジャズや映画は趣味でしたが、それが役に立ったわけです」

 -趣味だったとはいえ、仕事にできるほどの知識があった。

 「あの頃は映画が盛んでしたもん。いい映画だと評判が立てば、ほとんど見に行ってました。チャップリンの『ライムライト』とか。大半を見に行ってましたね」

 ◆映画は幼少時から

 -映画は子供時代から好きだった。

 「映画はね、昭和18年。8歳の時に親に連れられて見に行った、黒澤明さんが監督デビューした『姿三四郎』を見て以来、映画少年になりましたね。あの戦争の影もないおもしろさが。それまでも嵐寛寿郎さんの『鞍馬天狗』とかも見てましたが、映画っておもしろいなと感じ、やみつきになりましたね」

 -映画好きも幼少時からの筋金入りですね。

 「さらに私の実家は、京都市北区の鷹峯にあるんですが、当時は3日に1度は時代劇映画がロケーションに来てたんです。学校から帰るとカバン放り出して見に行くんです。いろんなスターを見ました。榎本健一さん、大河内傳次郎さん、長谷川一夫さん、轟夕起子さん」

 -なかなかない環境です。

 「溝口健二監督が『宮本武蔵』を撮ったんも、うちの近所ですよ。溝口監督は口をへの字に曲げて、撮影中はものを言わない。現場の空気はぴんと張り詰めてましたね。そんな場面を見てますし、上映されると誰々の家が映ってたと言い合って、次から次へと映画を見に行ってました」

 ◆渡辺プロダクション

 -大学を出てプロに。どのような経緯で。

 「アルバイトで出演していた京都の『ベラミ』は、東京の渡辺プロダクションと契約していて、タレントが入っていましてね。そこに社長の渡辺晋さんも来られてて、舞台に立っているうちに『うちのプロダクションにおいで』と引っ張っていただいたんです。大学を出て東京に行きました」

 -趣味が学生アルバイト司会につながり、そのままプロに。順風満帆。

 「それがね。やっぱり、東京は難しかったんですよ」※(2)完

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