【大場久美子 22】私は母から生きる底力を教わった。
私は母を尊敬しています。母のようになりたいけれど、存在が大きすぎて、偉大すぎて、母には追いつけないし追い越せない。
いじめが原因で登校拒否を続けていた私は、勉強も遅れがちだった。でも勉強しなさいとも、それに触れる事もなく「一+一は二も大切だけど、赤と白を混ぜるとピンク色になるんだよ。生きるってこっちの方が大切なのよ」と。
貧乏だったせいもあると思うけど、家には遊具と言えるものは何もなかった。
家の中での遊びは母とのコミュニケーション。母は家事をしながらそばにいる私にいろいろ話しかけてくれた。
ハンカチを濡(ぬ)らして絞って、私に「ガラスに貼ってごらんなさい」と渡す。ストーブで乾燥している部屋では、薄いハンカチはすぐに乾いた。乾いたハンカチを剥がすと、アイロンをかけたようにシワがピーンと伸びてきれいだった。アイロンがなくたってお友達に見せても恥ずかしくない、きれいなハンカチを持っていける。そんなうれしい瞬間母の顔を見ると、いつも笑顔で返事をしてくれた。
私が京都にドラマの撮影で長期滞在している時だった。早朝、母の電話で起こされた。母は一言「家がね火事になって、でも全部焼けちゃったから心配して帰って来なくていいよ。」ガチャン!ツーツー…と、一方的に電話を切られた。早朝だし寝ぼけている私には、その一瞬の出来事を理解するのに少し時間がかかった。
その日は撮休だったのとマスコミがたくさん来ているというので実家に戻った。焼け跡にいた母は、手伝ってくださった近所の方々にビールを配り乾杯していた。今日は東京の私の家に来るよう両親に勧めたが、父は次の日も変わらず仕事に出るといい、母の大きいお風呂にゆっくり浸かりたいとの要望で、健康センターに泊まった。
次の日「久美子焼け跡に行くよ」の母の一言で現場へ。戦時中の母の姿が想像できた。使えるものはないか危険をかえりみず、焼け跡をあさりながら探し物をしている。「隣からノコギリ借りてきて」に指示に借りてくると、少し焼け残った仏壇に両足をかけて切りはじめた!通帳やら大切な物ばかり入っていた引き出しが焼け残っていたのだ。
ドン底にあっても這(は)い上がろうとする母に、生きる底力をその時私は見ました。