神田正輝コラム 大門軍団と石原プロ

 【ナンンダカンダで40年】うちの会社(石原プロ)はもともと俳優の会社じゃなく、映画の製作会社だったんです。石原裕次郎さんが好きな映画を撮りたくて作った会社ですから。だから撮影部、録音部、照明部、車両部があって、僕らは俳優部。スターは石原さんだけで、あとは“パーツ”ですよね。一つでも欠けたらダメだし、うまく組み合えば何かができる。

 テレビ朝日系「西部警察」で「大門軍団、制作・石原プロモーション」とバスの横に書いていたら、それが「石原軍団」になっちゃった。もともと「石原軍団」じゃなかったんですから。言葉自体がおかしいですもんね。みんな真っ黒い服を着ているイメージで。

 徳重聡らが入って来て、うちの若いのは2~3年たっても、みんな黒い服を着てた。「お前らブルース・ブラザースじゃないんだから。色着いた服着ろ」って僕は言ったんだけど、全員が渡さんの「黒」を意識して。記者会見に全員喪服みたいな格好もおかしいじゃないですか。「もっと自分で好きな色着ろよ」って言ったんだけど、なんかイメージ持っちゃうんですよね。

 僕はデビュー作の日本テレビ系「大都会 闘いの日々」(1976年)で寺尾聰さんにお世話になった。終了後、同じ記者クラブを舞台にした同局系ドラマ「いろはの“い”」でも一緒でした。寺尾さんは赤坂のレコード店でLP盤を大人買いするんです。ごちそうになっている手前、それを寺尾さんの家まで運んでね。寺尾さんはレコード聴きながら、ギター弾くのが好きだった。もともとミュージシャンですからね。

 歌手の人はヒット曲って言うのがあるかもしれないですけど(寺尾さんは「ルビーの指環」)、役者って3年後、6年後、9年後、12年後とかって、その間、ずっと何かやって成長してないといけない。そういう意味じゃ、変わった商売だなと思います。実力があるからいけるってものじゃなく、運もある。

 同世代でも(松田)優作や(柴田)恭兵ら養成所や小劇団で4年くらいやってる人が来る中、こっちはド素人から始めて現場で覚えていった。うちの会社にいたら甘えるから、キャストもスタッフもやり方も全部違う外に出して短時間で覚えさせようとしたんじゃないですかね。そういう違いをインプットして適応力も出てきて、気がつけば40年。そして来週は最終回です。

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