【平成物語16】国境を越えた“五輪おじさん”イマジンの精神体現、平成と共に去る

 「平成24(2012)年 ロンドン五輪」

 “五輪おじさん”こと実業家・山田直稔氏は、平成にあった7度の夏季五輪を昭和から引き続き、すべて現地で応援した。2012年のロンドン五輪。記者は競技取材の合間に山田氏と行動を共にして「観戦記」を執筆。「国境を超える」が一つのテーマになった。

 柔道男子100キロ級で、日本代表が午前中の2回戦で敗れた日のことだった。時間の空いた山田氏は「大英博物館に行く」と会場を出たが、表彰式には戻ってきた。「日本が絡んでなくても、そこは大事」。金メダルのロシア選手を祝福した。

 表彰式といえば、記憶に残ったことがある。記者は男子レスリングでアゼルバイジャンの国歌を初めて聴いた。壮大なスケールの曲調にひかれ、多様な人種の1人として客席で起立していた。国籍など気にせず、気に入った歌として聴いた。そこに自由を感じた。

 自由といえば、金のシルクハットに羽織はかまで街を歩いた山田氏。スペインの女性記者に取材され、フランス人のグループに囲まれて「ラッキー!」の合言葉で記念撮影。当時86歳。開会式に登場したポール・マッカートニーについて、記者が「昭和41年に武道館で大騒ぎになった英国の『ビートルズ』という楽団の一員です」と説明すると、「そりゃ、たいしたもんだ」。好奇心は旺盛だった。

 ポールで幕を開けた“ロック大国”の五輪。大御所バンドのザ・フーも出演した閉会式では、ジョン・レノンが映像の中で「イマジン」を歌い、幕を閉じた。国別メダル獲得数に一喜一憂する見方もいいが、本来、五輪は人種や国家を超えたところにあったはず。この曲を“お花畑”と揶揄(やゆ)する人もいるが、せめてスポーツの世界では国境から自由でありたい。山田氏はその精神を貫いた。

 7年後の今春、2度目の東京五輪を前に、山田氏は死去。93回目の誕生日となる4月16日に都内で開催された「お別れの会」は、副団長の石川恭子さんが仕切った。「欧州で放浪の旅の途中に寄った」という平成最初の夏季五輪・バルセロナ大会(1992年)で、学生の石川さんは山田氏にたまたま電車で声を掛けられて一緒に野球を応援。以来、四半世紀を伴走してきた。

 「体の中の時計が4年に1度鳴ります。オリンピックが体に染みついて」と石川さん。「来年の東京五輪は2代目団長ですか」と問うと、「いえいえ、団長は山田団長だけです」。平成と共に去り、記憶の中で“名誉団長”として生き続ける。(デイリースポーツ・北村泰介)

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