【60】シーズン幕開けの野球祭 大会復活の苦難からセンバツ新時代への改革
「日本高野連理事・田名部和裕 僕と高校野球の50年」
センバツ大会は戦後復活時に、GHQ(連合軍総司令部)から全国的大会は年1回だけと当初開催の許諾が得られなかった。
しかし春の大会としてすでに18回の球史を重ねており、佐伯達夫氏(当時全国中等学校野球連盟副会長)や毎日新聞関係者が折衝を重ね、開催にこぎつけたが、その際の開催理由の一つに「シーズン幕開けの野球祭」を挙げた。
もちろん前年度活躍したチームを選考、招待する方式は踏襲したが、“全国的”をかわすためやむを得ず北海道、東北地区を選考対象から外した。
それでもGHQの同意は難しかったが、1947年3月、大会直前まで粘り「今年限り」などと条件を付けられながらもとにかく開催にこぎつけた。
そんなこともあって、戦後再開したセンバツ大会は「開幕の日をもって全国の野球シーズンの始まり」とし、出場校は「最初に試合ができる栄誉」とされた。
だからセンバツ大会出場校と言えどもそれまでは練習試合もできなかった。
GHQからは、1年を通して同じ競技をやることについても見直しを求める声があった。
これに対しては「戦後、物資がないときにいくつもの競技をやるのは不可能」と反発、替わって「12月1日からセンバツ大会開幕日までをアウトオブシーズンとして一切の試合を行わない」という制度を設けた。
そのため、センバツ大会出場校は、大会前に自校で紅白試合をするなど試合感覚を保つのに苦労した。いきなり大観衆の前での試合だから、内外野とも送球ミスが目立った。
時代が下って88年の大会前、S高校が社会人野球のチームと6イニングスの試合をやった。「9回までいかないなら正式試合ではないと思った」という。
アウトオブシーズンは対外試合そのものを禁じていたので僕は同校の行動を問題にした。
大会も迫っていることでどのような“処分”にするか協議した。
すると牧野直隆会長(当時)は「全国大会を前にして試合勘を取り戻すため練習試合をやりたいのはどのチームも同じだろう。陰で規則を破るのはどこか規則に無理があるのでは」と規則の見直しを提案された。
牧野さんは、とにかく頭も身体も柔軟だ。真向法という柔軟体操を励行されており、開脚前屈で上半身が床に着く柔らかさはつとに有名だった。かくて牧野会長裁定で同校には厳重注意で処分はなし。
その後寒冷地域の同意を得て93年から3月15日以降練習試合は解禁となった。(現在は3月8日以降)もちろん初戦で荒れる試合は激減したように思う。