【40】故・松原事務局長の熱意 プロと学生の架け橋となった遺志を無にしない
「日本高野連理事・田名部和裕 僕と高校野球の50年」
プロ野球選手会の事務局長として長年尽力されてきた松原徹さんが先月20日に58歳の若さで膀胱がんのため急逝された。
彼と最初に会ったのは多分、元芝浦工業大学長の大本修先生が、「アオダモ資源育成の会」を立ち上げられた時だったように思う。プロアマの野球関係者らがこぞって参画した。
高校野球は金属製バットだが、国内での木製バットの資源が少なくなり、将来の野球少年に品質の良いバット材のアオダモを残そうという運動だった。
2000年10月7日に北海道の岩見沢付近で最初の植樹祭があった。
松原さんから、翌年の7月には札幌でオールスターがあるので出場選手が植樹祭に参加できるようにしたいと提案があり、アオダモ植樹の機運が一気に盛り上がった。
何しろバット材として活用できるまでに70年から80年を要する気の長い事業だ。
翌年の苫小牧の山林で行われた植樹祭には当時の選手会会長の古田敦也さんはじめ松井秀喜選手や松坂大輔選手ら人気選手がこぞって参加した。地元の高校野球部員もユニホーム姿で参加した。
その時の古田さんは「まさかここで高校生と一緒に活動できると思わなかった。今度はグラウンドで一緒にプレーしたいものだ」とコメントした。それを引き出したのは松原さんだ。
松原さんは、選手会事務局長として現役選手から待遇改善やプロアマ関係の前進など様々な課題解決を求められていた。
キャンプでは12球団を精力的に回り、各球団の選手会代表とひざ詰めで話し合った。その中のテーマにはセカンドキャリアへの道を開くこともあった。
プロ野球と学生野球の間で長く続いた断絶は、双方に重くのしかかる閉そく感が漂っていた時代だ。松原さんは、まず「球界への恩返し」として高校野球への支援活動を呼び掛けた。それがシンポジウム「夢の向こうに」の実現となった。
現役選手がプロとなるために様々に工夫、努力したことを余さず熱心に語ってくれた。3時間余りの講座中、熱心にメモをとる高校生を見て、プロアマ双方の関係者の誰しもが成功を確信した。
その結果、05年オフから現役プロ野球選手が母校で練習ができることになった。さらに12年から退団者の学生野球資格回復制度が始まった。
アオダモの植樹から端を発して松原さんのたゆまぬ努力がプロと学生野球の関係改善に繋がった。この先の構想も描いていた松原さんが、道半ばで倒れた悔しさはいかばかりかと思う。我々はそれを無にしないと誓いたい。