【30】球史の扉を開いた人々 多士済々のプレーヤーが集った草創期

 「日本高野連理事・田名部和裕 僕と高校野球の50年」

 全国高校野球選手権大会は大正4年8月18日に大阪・豊中グラウンドで始まり、100年を迎えた。

 現阪急電鉄の前身、箕面有馬電気軌道は、明治43年3月に開業。

 そして翌年には箕面動物園と宝塚新温泉を開設。沿線開発で豊中住宅地の先駆けとして豊中運動場を着工、大正2年5月、豊能郡中村新免(現玉井町)に国内初の総合グラウンドとして1周400メートルのトラックを備えた陸上競技もできる施設を完成させた。

 こけら落としは、大阪毎日新聞社主催で、完成間もない6月に慶応義塾大学対米国スタンフォード大学の野球試合が行われた。試合はス大が10-0の大差で勝利。

 「球史ここに始まる」とされる第1回大会は、2年後に開かれた。当時は、明治40年に阪神電鉄が香櫨園運動場を、同42年に東京で京浜急行が羽田グラウンドを造ったが十分な施設ではなかった。選手たちは、本格的な野球場で試合ができると勇躍、豊中を目指したとされている。

 さて、第1回大会は、大会開催を決断した朝日新聞社の村山龍平社長の始球式で幕を開けた。続いて鳥取中・鹿田一郎投手が、直球でストライクを投じたと思い出を語っている。ただ、球審井上さんは、緊張のあまり村山社長の始球式の投球を併せ「ストライクツー」とコールしたとか…。

 この大会に参加した選手の名前がフルネームで残っている。今から40年近く前に神戸市在住の古文書研究家が、開催要項を朝日新聞社に寄贈して下さり、今は阪神甲子園球場の歴史館に展示されている。

 よく見ると第1回大会・和歌山中の小笠原道生さんは東大医学部から文部省に入り、昭和7年の野球統制令草案にかかわり、戦前初代の体育局長となった人だ。早実には明治大学の監督になった岡田源三郎さんや後に「ジュン石井」として王貞治さんのバットを手掛けた石井順一さんの名前もある。

 第2回大会で優勝した慶応普通には、米国籍のジョン・ダン選手が翌年と2回出場、当初から国籍制限がなかったことが分かる。また市岡中・魚谷忠さんは、その後NHKに入り、昭和2年の第13回大会で国内初のスポーツ実況中継のアナウンスを務めている。

 これら黎明期をたどって、豊中市では「高校野球発祥の地・豊中」記念シンポを開催する。元MLBカージナルスの田口壮さんの基調講演と戦後最初の大会で優勝した京都二中OBの黒田脩さんらと僕も一緒にシンポに参加する。当時のエピソードをたくさん持参したい。

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