韓国球界の一時代を築いた捕手の引退式

 4月30日、ソウル蚕室球場での斗山-ロッテ戦に先立って、ホン・ソンフン捕手の引退式が行われた。昨季で18年の現役生活に終止符を打ち、式だけが今シーズン初頭の今の時期に準備されていた。

 1999年に大学を卒業して斗山入り。いきなり正捕手の座を確保し、16本塁打、63打点で新人王を獲得。強肩強打に加え、いつも明るい表情を絶やさなかった彼は、まさに斗山の人気選手だった。それでいて2000年のシドニー五輪以後、幾多の国際大会ではマスクを被(かぶ)った。自他ともに、韓国球界の一時代を為した、キャッチャーだった。

 ホン・ソンフンと笑顔。

 あれはいつのことだろう。シーズンの重要な時期に、チームが手痛い負けを喫した。これで優勝は遠のいた。誰もが「シーズンが終わった」という沈鬱(ちんうつ)な空気に沈んでいたロッカールームで、だが彼だけは笑顔で筆者を招き入れてくれた。「まだ大丈夫」「まだまだ諦める時期じゃない」。根拠の乏しい説得力のない言葉だったが、真顔で、そしてニコッとほほ笑むそのときの彼の笑顔には、普段と変わらぬ明るさがあった。

 韓国の選手たちには、ちょっとした特徴がある。一度気運に乗れば、どこまでも乗っていく反面、ひとたびへこむと、意外なほど諦めが早い気質があるのだ。それは公式戦でも、国際大会でも変わらない。いわば韓国人選手の特徴といっていい。

 そんな中、ホン・ソンフンはいつも真顔で、そして笑顔をたたえていた。当時のチーム関係者からこんな話を聞いたことがある。

 「アイツはよく言えば根っからの陽気者。だが言い方を変えれば天然(苦笑)。ピンチで冷静に行かなきゃいけないところでも、“イケイケ”で突破しようとして投手をミスリードしまう性格の捕手だった」

 だから捕手としての評価は、微妙だった。実際、捕手出身のコーチが監督に昇格すると、ホン・ソンフンの出番は激減した。指名打者にまわるよう勧められ、結果、ちょうどその当時、取得したFAでロッテに移籍した。2008年オフことだ。

 彼が斗山球団にFA権を行為しすることを伝えに出向いたとき、偶然にも筆者は球団事務所にいた。

 「本当に行く(移籍する)のか?」

 「行く。でもサヨナラじゃない。ロッテで会いましょう」

 そのふたことだけ言うと、彼は足早に関係者出口へ向かった。半泣きしていた。

 思えば、その時初めて、彼の笑顔以外の表情を見た気がした。人気チームの看板選手のFA移籍は、その当時、大きな話題となったが、本人にしてみれば捕手を続けたいがための苦渋の移籍だった。

 しかし移籍したロッテでも、マスクを被るより指名打者や外野登録での出番の方が多かった。

 やがて斗山の監督が代わり、2度目のFA権を取得すると、彼は再び古巣に戻った。戻ってもマスクを被ることはほとんどなかったが、それでも(少なくとも筆者は)、彼の不満げな表情を見たことはなかった。

 当時、彼はこう言っていた。

 「ファンの人たちは、僕がロッテに移籍したことは遠回りだったと思っているみたい。監督のことを恨んでいるとかね。でもそれは違う。監督が僕にキビシイ評価を下してくれたから、僕はバット一本で生きる覚悟を持てたんだ」

 こうした、いわば紆余(うよ)曲折を体験した野球選手は、日本にも多くいるはずだ。しかし彼の良さは、その時々において、常に明るく(少なくとも)明るく振る舞っていたことだ。そして諦めなかったこと。他者なら諦めて当然の立場に為っても、諦めず、笑顔でいること。

 それは誰でもができることではない。だが彼はそんな性格のお陰で、2015年には韓国球界でも5人目の2000本安打を達成するに至った。大きな区切りを作った彼は昨季、40歳になった。

 引退は、まさに潮時だった。

 18年の通算成績は、1957試合に出場し、2046安打、打率.301、1120打点、208本塁打。

 日本には馴染(なじ)みのない選手の引退だ。外電でも報じられないネタだろう。しかし野球人として、こんな選手がいたことを、日本の野球ファンにも知っておいて欲しいと思った。(スポーツライター・木村公一)

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