堅田さんの人生支えた延長十八回の試合球 19シーズンの審判員生活に幕

 思い出の詰まった甲子園球場の前に立つ堅田外司昭元審判員(撮影・吉澤敬太)
 堅田外司昭投手が永野元玄球審から贈られた試合球(甲子園歴史館提供)
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 8月29日に閉幕した夏の甲子園。智弁和歌山と智弁学園の決勝戦を最後に、一人の審判が聖地を静かに去った。1979年夏の3回戦で、箕島との延長十八回を一人で投げ抜いた星稜のエース堅田外司昭さん(59)は、社会人野球から審判員の道へ進み、2003年から19シーズン、甲子園で試合を裁いてきた。堅田さんの人生を支えたのは、208球を投げた敗戦後に球審から手渡された1球のボール。「史上最高」と呼ばれた伝説の試合の後、左腕が歩んだ審判人生を2回連載のインタビューでお届けする。

 延長十八回を戦い終えた時に、道は決まっていたのかもしれない。グラウンドを後にした悲運のエースを、永野元玄(もとはる)球審が呼び止めた。腰の袋から取り出したのは1球の試合球。

 「階段を下りる時に『堅田君、もう一度上がってきなさい。グラウンドを見ておきなさい』と言われて外に出ました。ちょうど照明が消えるところ。こんなきれいなところで試合がやれたんや。そうか、ナイターをやれたんやとその時に初めて思いました。もう一度階段を下りると、永野さんが『これを持って帰りなさい』とボールを渡してくださった」

 -どう受け止めた。

 「あの時は、審判さん、ありがとうというくらいで。でも、いただいたボールは、時がたつにつれて意味のある物になりました」

 -高校卒業で野球はやめるつもりだった。

 「金沢で就職をしようかと思っていました。でも、たまたま日本代表に選ばれて。誰がプロだとか、(箕島の)嶋田(宗彦)は住友金属などと聞いた。すると自分も松下電器(現パナソニック)からお話をいただいて、行こうと決めました」

 -社会人入りしたが、23歳の若さで引退しマネジャーを経て審判の道へ。その間、試合球は支えになった。

 「(社会人では)あの堅田だと言われることもあったが、このボールに恥じないようにといつも思っていた。家に飾って時に元気をつけてもらい、時にしかってもらった。節目節目にあのボールは意味を持ちました」

 -審判としては、高校球界を代表する永野さんや木嶋一黄さん(延長十八回の二塁塁審で元日本高野連審判規則委員長)らの背中を見てきた。

 「大先輩からいろんなことを教えてもらいました。例えば大事な場面の3ボール2ストライクの時に打者がファウルを打つとする。(投手に投げ返す時には)持っているのを触って、新球ではなく滑らないざらっとした古いボールを選ぶ。すべて磨いているとはいえ、一回も使っていないのとそうでないのとは(滑りが)違うので」

 -地方大会でも心掛けていることがある。

 「大阪大会では、甲子園と違って代打のアナウンスや名前の表示も時間がかかる。そういう時は、何げなくベースを掃いたり捕手に声をかけたりして間延びしないようにする。その子にとっては、最初で最後の公式戦打席かもしれない。僕がプレーをかけて初球で打ち取られたら、名前が表示されることもなく終わってしまう。家族は写真を撮ろうとしているかもしれない。だから、スコアボードに名前が出てアナウンスされて、バットを一回くらい振ってから、さあいこうと。投手や捕手には悪いけど、それくらいは待ってやってねと。それが僕らができる一番のこと。先輩から引き継いだ高校野球の心じゃないかな」

 -自身の思い出は。

 「やはりデビュー戦の東北-筑陽学園(03年夏の1回戦)。とても緊張しました。東北は2年生のダルビッシュ君がいた。二塁塁審なので投手を後ろから見て、昔はここで自分が投げていたんだと思い出した。ラッキーゾーンがなくなっていたので、あそこに本塁打を打たれたんやと当時の場面がちらちらと頭に出て、あかんあかんと。無我夢中でした」

 -高校野球100年の15年には王貞治氏の始球式で球審をした。

 「本当にきれいなストライクだったので、感動しました。後で聞くと、相当練習されていたと。王さんはやっぱりすごい」

 -100回大会(18年)は、延長十八回を投げ合った箕島の元エース、石井毅(現姓名は木村竹志)さんの始球式で球審を務めた。

 「漫画みたいな世界。まさか僕が球審であのマウンドに立ってプレーをかけ、そこに毅が出てくるなんて。『(当時プロで解禁されたため)二段モーションは高校野球はダメだぞ』と言うと、あいつは『ボークを取るなよ』と。投球後に自然とお互い手を伸ばして握手をした。するとスタンドから拍手が湧いて、また感動しました」

 -延長十八回のボールは、今は甲子園歴史館(現在休館中)に展示されている。

 「ずっとそばに置いていたけど、数年前に展示してもらった方がいいと。自分はもう大丈夫。いただいたもの(ボールの意味)は、僕だけのものじゃないなと思ったので」

 ◆堅田外司昭(かただ・としあき)1961年10月22日生まれ、石川県金沢市出身。星稜では1年夏からベンチ入りし、3年の79年に春夏連続で甲子園に出場。夏3回戦で同年春優勝の箕島と延長十八回の死闘を演じた。社会人野球の松下電器で5年の現役生活後、23歳で引退。マネジャーを計8シーズン務めた後、02年から社会人野球、03年夏から高校野球の審判に。18年の100回大会決勝の球審など節目の試合で審判を務めた。今夏で甲子園の審判生活を終えた。

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