「不覚」

 昔は新幹線に食堂車がついていた。速い「のぞみ」が走るようになってから食事をするのにのぞみでは時間が少なすぎる。だから無くなった。それ以外の理由は知らない。遠征の行き帰りは、その食堂車で監督、コーチや目当ての選手を呼べるので取材はすごく助かった。

 あの日は吉田義男監督を頼んだ。そばに広報担当がいる。吉田は「これはどっちや」と広報に聞く。飯代のことである。球団が払うのか、新聞社が出すのか。吉田はそれを聞いている。広報が手で俺(記者)のほうですとサインを送る。

 「そうか、ほな、しっかり喋ろか」

 「デイリーが払うんやったら、しゃあないな。球団持ちやったら、リップサービスも要らんやろ?がははは」

 むろん、吉田得意の関西味(吉田は京都出身)であって、多くは冗談なのだが、初めて対面する人は多分、息を飲んだろう。

 あの日の取材は吉田2度目の監督時代の2年目(1986=昭和61年)のシーズン中。前年に西武に勝って球団史上初めて日本一になったというのに、吉田丸は乗りが良くなかった。

 「なかなかエンジンがかかりませんな。バースも掛布、岡田、真弓も。チームの2年目のジンクスというものですか?」

 「理由は当然あります」

 思えば強烈な打線だった。スタメンの名前を聞くだけでどの球団の監督も、恐れた虎打線。それがたった1年で機能していない。打線だけでなく、投手陣もまた。大黒柱といえるエース級はいなかったが、粒はそろっていた。そのスタッフも機能していない。

 ひかりが横浜駅を発車して取材を始めた。

 吉田は腕を組んだ。

 「私の失敗です。もっと編成のケツを叩かなあきませんでした」「実は心配してたことが当たってしまったんです」

 米球界にも人脈がある吉田はメジャーのGM経験者から聞いていたのに実行しなかったことを新幹線の食堂車で悔いている。

 「勝った翌年にすべきこと」とメジャーの知人からの助言。それは「勝った翌年のシーズンを前年と同じメンバーで戦ってはいけない。一度勝利の味を知ると、いつでも勝てるという錯覚に支配される。気が緩む。歴史がそれを教えてくれている。新しい空気を、去年にはなかった戦力を獲ること。勝った翌年こそ、強い補強が必要だな」という教訓であった。

 球団のメディアガイドを見ると、1986年の入団はわずか8選手(柏原純一、遠山昭治、中野佐資、服部裕昭、吉田康夫、宮内仁一、新山隆史、榊原良行)だけ。これではいかにも、去年のVメンバーに競争心、危機感を与えられない。

 そういえば優勝翌年のあのシーズン。セ・リーグはストライク・ゾーンを球3分の2くらいの低めをとるようになった。ウソか本当か「阪神打線のホームランを減らすため」という噂があった。実際、本塁打の数は減った。

 吉田の不安は的中した。かくして吉田阪神2年目は3位、翌3年目は最下位に沈没した。球団史上2度目の最下位。吉田丸は座礁した。1年目の「天国」3年目の「地獄」。合わせて「天地会」という会が誕生した。会長は…吉田義男である。

 虎の栄華は短命だった。吉田は3年目のオフ、責任を取って辞める。懐刀の一枝修平コーチら首脳13人が「一連託生」という言葉を残して阪神から去った。

 ファンの失望が続く。ポスト吉田の、村山実政権1年目(1988=昭和63年)史上最強の助っ人R・バースと掛布雅之、山本和行、中村勝広が引退した。その夏にはフロントの幹部に悲劇が起きた。球団代表の古谷真吾さんが自死したのである。バースの家族の難病の保険契約のことでもめ、悩んだ末、自らの命を絶った。だれがあのシーズンの暗転を予測できたろう。

 阪神タイガースは以来、呪われたように坂を下り、次の優勝まで18年もの歳月を要した。その間、10度もの6位を記録した。(敬称略)

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