川島正調教師の熱い思いを引き継ぎたい

 アラブの王様のような黒いひげをはやし、鋭いまなざしでこちらを見やると、「地方競馬を盛り上げたいんだ。そのことでいつも頭がいっぱいだよ」と語ってきた船橋競馬の闘将・川島正行調教師。

 JRAでも活躍したアジュディミツオー、フリオーソなど多くの名馬を育て、数々の栄誉を手にしてきた人一倍熱いホースマンが7日、66歳の若さで逝ってしまった。数年前から体調を崩し、昨年ぐらいからは入退院を繰り返しながら、話すのも歩くのもつらそうだった。今年の春ごろに、「早く良くなってくださいね」と肩を抱いた時、ずいぶん小さくなったなあと感じた。

 90年秋に厩舎を開業したが、その頃から取材をさせてもらうようになった。開業時は5馬房の小さな厩舎だったが、当時からオーラを醸し出していた。その風貌から近寄りがたいところはあったが、いざ認めてもらえるといろいろなことを教えてくれた。時にはジョークを交えながら、危ない!?話も聞かせてくれた。勝負に対して妥協しない厳しさのある反面、そんなちゃめっ気のあるところも魅力だった。とにかく勉強熱心で、失敗を恐れない独特の発想力とズバ抜けた行動力には驚かされるばかりだった。

 地方競馬で初めて、パドックで馬を引く厩務員に正装させた。船橋競馬場のスタンド内にレストランをオープンさせたり、新たなファン層の拡大へと各種イベントを企画したり…。時には周囲から反発を招くこともあったが、それをことごとく成し遂げてきた。「出るくいは打たれるが、出過ぎたくいは打たれない」‐。騎手時代から兄のように慕ってきた歌手・北島三郎から贈られた言葉を座右の銘として走り続けてきた。

 人づくりにも力を注いだ。いまではJRAのトップで活躍する内田博幸、戸崎圭太騎手を厩舎の主戦として起用し、厳しく指導してきた。一番弟子の佐藤裕太元騎手は、主に2人が騎乗する厩舎の看板馬のほとんどの調教を担当した。あまり実戦での騎乗機会には恵まれなかったが、嫌な顔ひとつせずに黙々と馬にまたがった。今年6月、調教師試験に合格した時「ずいぶん苦労させたが、何事にも一生懸命な子だからな。良かった、ホントに良かったよ」と、うれしそうにほほ笑んだ顔が印象的だった。

 今年の東京ダービーは、史上最多のV6をかけて息子の正太郎が騎乗するドバイエキスプレスで挑んだ。担当するのはその弟の光司厩務員。つえをつきながら陣頭指揮を執った。「親父がポツリと言ったんですよ。“(ダービーを)勝ちたい”って。親父の喜ぶ顔が見たいですね」。最終追い切り後にそう明かしてくれた正太郎。結果は7着だったが“川島ファミリー”の固い絆にジーンとさせられた。

 いつかはファミリーで地方の、さらにはJRAの大レースを勝ちたかった(JRAでは43戦して未勝利)だろう。クラーベセクレタの禁止薬物(11年ジャパンダートダービー3着後に微量のカフェインが尿検査で検出され失格に)事件は、結局混入経路などの詳細が解明されることなく、汚名を返上することはかなわなかった。常に心にとどめ、そのことを話す時はつらそうだった。開催へ向けて尽力してきた船橋のナイター競馬もようやく来春の開幕が決まったが、その景色を見ることはできなかった。数多くの栄光の陰には、数多くの無念も残った。

 師の影響を受けた一人、同じ船橋の矢野義幸調教師が言う。「常に前向きで、どんどん新しいことに挑戦してきた。周囲からは変な目で見られることもあったが、それをやり遂げたのだからすごい。ナイター開催を含めてこれからが大変。後を引き継ぐことはできないが、少しでも近づけるように頑張りたい。偉大な人だったね」。

 地方競馬の人気回復を祈り、まさに猛然と走り続けた競馬人生。南関東のみならず地方競馬全体、さらには日本の競馬界に多くの影響力を与えた偉大なホースマン。その熱い思いは、我々競馬マスコミを含む残された関係者が、しっかりと引き継いでいかなければならない。モタモタしてたら天国から怒鳴り込んでくるかも…先生、それは勘弁です。ゆっくり休んでください、お疲れさまでした。合掌。(デイリースポーツ・村上英明)

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