公さん長男が箕島監督に就任 尾藤強氏

 和歌山の名門・箕島高野球部に“尾藤監督”が帰ってきた。1979年に公立高で初めて甲子園の春夏連覇を達成した尾藤公(ただし)元監督が病に倒れ、永眠してから丸2年。周囲の要請に応え、長男・強氏(43)が今月1日から母校の硬式野球部監督に就任した。高校時代、名監督だった父と目指した甲子園。“のびのび野球”が代名詞だった尾藤スタイルを新監督がどう進化させ、名門復活に導くか。亡き父への思いなどを含め、熱く語ってもらった。

  ◇   ◇

 ‐まずは監督就任を要請された経緯から伺いましょうか。

 「去年の8月終わりに、OB会から軽い感じで『学校のぞいてやってくれ』ということを言われてたんです。その時は『僕が動くと監督がやりづらくなるでしょう』と答えたんですが『とりあえず1回学校へ行きますわ』と…。それで1週間黙って練習を見てたんですよ」

 ‐見てただけ?

 「はい。監督からは『選手に話をしたって下さい』と言われましたが、選手の誰一人名前も知らないのに、それは失礼やと。まずは35人の顔と名前を覚えて、それからグラウンドに入ったわけですが…」

 ‐それが“コーチ”としての第一歩ですか。で、印象はどうでした。

 「『今の箕島はなってないぞ』とか先行して周りの声が入ってはきてました。礼儀にしても試合のマナーにしても、ものすごく悪いんだろうなと思ってましたが、実際話をしてみると全然悪くない。『この子らと野球をしてみたいな』と思いましたね。それから、OB会には『仕事の加減はありますが、できる限り行きます』と。選手や父兄、その他OBは『また来てるわ』と思っていたでしょうね(笑)」

 ‐それから徐々に機運が高まって今月1日の正式就任になった。

 「結果的にそうなりますが、去年の9月に『とりあえず一から始めようや』ということで、礼儀礼節から出発したんです。『それで甲子園に一歩でも近づくんだったらやってみないか』って。教師じゃない僕が第三者的に見て感じる部分とか、僕だから伝えられる部分を、僕の言葉で、有田の言葉で伝えるようにしています」

 ‐就任して5日後の6日が、お父さん(公氏)の三回忌でした。墓前にどう報告しましたか。

 「甲子園うんぬんの話はしなかったですが、親父が僕に言ってくるだろう言葉はだいたいわかるんで…。『選手がやりやすい環境をつくってやれ。お前はサポートするだけや』と、生きてれば絶対言うと思うんですね。そういう部分で『思い悩んだ時は力貸して』という報告、相談と『選手たちがケガとか悔いの残らないよう、箕島での高校野球人生を送らせてやって下さい!!』というお願いはしました。勝たせてとか甲子園にとか言ったら『俺に言うな!!』と怒られますから(笑)」

 ‐天国のお父さんは喜んでいると思いますが、家族の方は大変です。

 「母親は『体に気をつけて』と言ってくれていますが…。妻はコーチとして『学校に行くわ』と言った時の方が衝撃を受けてましたね」

 ‐今回、名門・箕島復活を託されたわけですが“重荷”を背負ったという感じでしょうか。

 「いや、そんな感覚はないですね。案外地元にいた方が(雑音は)聞こえてきませんよ。前日まで遠征で広島にいたんですが、熊本から『ファンです』と来られた方がいて、改めて『箕島ってすごいんだな』と思いましたけど」

 ‐そんな中で、選手をどう教えていくのか。スポーツ指導において体罰問題がクローズアップされる今日、教え方も大変難しいと思います。

 「いやぁ、難しいですねぇ。僕も殴られて育った方ですが…。殴られてわかることもあるんですけどね。中学校のころまでは、父親に家で一度も殴られたこともなかったんです」

 ‐監督と選手であり親子。それで、わかり合えた部分もあった。

 「くどくど言われるよりも殴られて『すみませんでした!!』ってした方が、お互い気持ちいいんじゃないかと…もちろん、今じゃあり得ないことですけどね」

 ‐“愛のムチ”がまだ許容されていた当時とは環境が違えば、選手の気質も変わっています。

 「『自分は見られていないんだ』と思うことが、一番辛いと感じるんですね。時間かかりますけど、一人一人と対話した方がいいように思いますし、それがちょっとした一言でも…。グラウンドから自宅に帰るまで、絶えずそのことを心がけています」

 ‐それでも分かってもらえないこともある。

 「あと1年もしたら学校を卒業して就職することになります。箕島の場合は半分以上がそうです。でも、社会に出たら苦労するだろうな‐という子が半分くらいはいるんですね。『箕島で野球をやってたから採ったるわ』という時代じゃないんで…。その子らが社会に出てどうかということを逆算してやっています。夏に勝つためにとか、甲子園に行くために、とかではないんです」

 ‐指導方針はわかりました。肝心の野球スタイルはどうでしょう。先代はバント戦法を中心とした“のびのび野球”で頂点に立ちました。どうしても比べられますね。

 「感じ方はまちまちですよね。親父が亡くなった時にあるOBの方が『箕島のコツコツやっていく野球を継承する』とかコメントされてましたが、僕にしたら少し違和感があるんです。コツコツやるのが箕島の野球なのか、バントを多用するのが箕島野球なのか。一般的にはそうかもしれないけど、それだけじゃないと思うんですよ」

 ‐箕島野球、尾藤野球はイメージで語られることが多いですからね。

 「例えば、1死一塁からバントさせたら『やっぱり尾藤野球を継承してる』と言うと思うし、無死二塁からヒッティングさせたら『親父と逆のことをやろうとしている』と言われるでしょう。でも、どれが正解かわからない。ただ、共通しているのは“つなぐ”ということです。どうして次の選手につないでいくか。これがまさに親父が言っていた“心の野球”だと思うんです。どういう思いで一つ一つのプレーをするか。バントするから箕島‐じゃない。それを選手たちも勘違いしてるんですね」

 ‐バント=箕島と思いこんでいる?

 「箕島は伝統の学校やから、そういう場面はバントばっかりやなと。でもそれは違います。普通だったらスリーバント失敗するなという場面でも、簡単にヒッティングのサインは出しません。ミスすることはわかっていてもさせます。それは徹底していますわ」

 ‐今の選手は失敗を恐れるというか、恥ずかしがるというのをよく聞きますね。

 「見逃し三振したら使ってもらえないから、無理してでも当てにいく…というか。それだったら三振の方がいい。形にとらわれすぎなんです。とにかく“ミスに強い箕島”にしたいですね。ミスした時が逆にチャンスやぞ‐と皆が思ってプレーできるチームに」

 ‐偉大な先代が天国から見ています。そして全国の箕島ファンが注目しています。

 「大変ですけど、毎日楽しいですよ。親父は29年間監督をやりましたが、やめられない理由が少しわかってきたような気がしてます(笑)」

 尾藤 強(びとう・つよし)1969年7月30日生まれの43歳。和歌山県有田市出身。元箕島高野球部監督・故尾藤公氏の長男。箕島高時代は投手で甲子園を目指すも県大会で敗退。法大に進学後、長野県のサッシメーカーに就職。96年結婚と同時に帰郷し、地元会社『武内商店』に入社、現在に至る。今年3月から会社勤務を続けながら、野球部の指揮を執ることになった。家族は妻と1男。

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