ライオネル・リッチー サミー・デイヴィスJr.伝記映画をプロデュース

 ライオネル・リッチーがサミー・デイヴィスJr.の伝記映画をプロデュースすることになった。 サミーとその妻ジェーン、作家バート・ボイヤー共著の1965年に発刊された回顧録『イエス・アイ・キャン:ザ・ストーリー・オブ・サミー・デイヴィスJr.』を基にした本作で、ライオネルはサミーの末息子マニー、ロレンツォ・ディ・ボナヴェンチュラ、マイケル・メンシェルと共にプロデューサーを担うことになる。

 元コモドアーズのメンバーであるライオネルは同作品について声明文の中で「僕のアイドルであり友人の人生を映画化できることを誇りに思います。デイヴィスの家族と一緒にこの作品作りを行っていけることに感謝し、この情熱的なプロジェクトを推し進めていくことにこの上ない喜びを感じています」と語っている。

 この映画プロジェクトの権利を誰が所有しているかについて2012年からサミーの遺産管理団体の遺言執行人たちによって長期に渡り法廷闘争が行われていたが、ようやく決着がついて映画製作が始動したかたちだ。2012年当時、サミーの娘の1人が版権を2つの会社に売却したと言われており、それに対しほかの娘が3500万ドル(約40億円)を求めて訴訟を起こすも棄却されていた。2015年にはサミーのキャリアを描くTVシリーズやドキュメンタリーが制作されると発表されていたが、1つも実現することはなかった。

 サミーは1950年から1960年代にかけて人気を博した、フランク・シナトラやディーン・マーティン、ピーター・ローフォード、ジョーイ・ビショップらから成るラット・パックのメンバーであり、ダンサーや歌手として賞賛を得た人物であった。ラット・パックとともにサミーは定期的にパフォーマンスを行い、メンバーらと映画『オーシャンと十一人の仲間』『荒野の3軍曹』などに出演していた。

 当時世界的人気を誇るスターの一人であったとはいえ、ラット・パックの公演がラスべガスで行われる際には、アメリカの人種差別の影響で参加できなかったこともあったという。

 エンターテイメント業界で大成功を収めたサミーだったが、その裏側ではさまざまな悲劇に見舞われており、1954年、カリフォルニア州サンバーバーディーノで車の事故に巻き込まれ生死をさまよった上、左目を失明していた。事故で負ったけがの療養をしながらユダヤ教の勉強をしていたサミーは1961年にユダヤ教へ改宗したのだという。1990年、喉頭がんでこの世を去っている。(BANG Media International)

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