【清宮幸太郎伝説】ラグビーから野球へ…父・克幸氏が決断後押し

 「日本ハムドラ1清宮幸太郎伝説」

 7球団競合の末、日本ハムが早実・清宮幸太郎内野手(18)の交渉権を引き当てた。高校通算111本塁打を放ち、甲子園にも2度出場。高校野球史上空前のフィーバーを巻き起こした大砲が、今度は球界を代表する大砲となる未来に期待が膨らむ。その生い立ち、リトルリーグ時代から数々の伝説を残してきた横顔を連載で紹介する。

  ◇  ◇

 1999年5月25日、清宮幸太郎は産声を上げた。父・克幸氏(50)は早大、サントリーで活躍した名ラガーマン。母・幸世さん(50)も慶大ゴルフ部の元主将。譲り受けた運動神経と大きな体はもちろん、両親からはアスリートとしての十分な教育も受けた。4歳から始めたラグビーと並行して陸上、テニス、水泳…。多くの慣れ親しむスポーツの中に、野球があった。

 幼少期には大きな転換点があった。もともと右打ちの愛息に、両親は左打ちを勧めたのだ。イチロー、松井秀、金本らが球界の主役。松井秀が一発を放った04年ヤンキースの開幕戦を東京ドームで観戦し「強打者は右投げ左打ち」との思いが強くなった克幸氏に、幸世さんも協力。“左の大砲”が誕生した。

 幸太郎は06年4月、早実初等部に入学。「早稲田大学でラグビーをしたかったので」という理由だった。だが、早実が初優勝した06年夏の甲子園決勝再試合を球場アルプスで応援。7歳の少年は、野球の魅力に引き込まれた。「自分の野球のきっかけは甲子園にある。印象に残っています」。高校時代、何度もそう振り返っている。

 小3時に軟式チームのオール麻布に入団。そして、小4時に大きな決断を下す。「ラグビーも大好きだったけど、競技人口が多い野球の方が切磋琢磨(せっさたくま)できると思った」。すでに同年代では頭一つ抜けていたラグビーを辞め、野球一本に絞ったのだ。

 克幸氏も野球を勧めた。幸太郎の考えに加え、別の理由もあった。アスリートとしての息子は、いわゆる速筋が強く持久力が少ないタイプ。ラグビーは、持久力が重視される時代になっていた。後に「自分のDNAを考えながら、息子たちが何に向いているのかは、ある程度わかる」と明かした父。適性を見極め「野球の方がいいところまでいけるのでは」と後押しした。

 10年1月、幸太郎は硬式の東京北砂リトルリーグに入団。当時コーチだった日高淳二現監督(46)は「メジャー(小6、中1のチーム)に誰か入ったのかと思った」と初対面を回想する。まだほっそりとしていたが、身長はすでに165センチほどあった。

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